杉村歯科医院
院長 杉村 好久
1963年7月、歯科医の次男として生まれました。祖父も歯科医であり、親戚たちも歯科医が多く、自分も歯科医になる運命を背負っていたのでしょうか?!私は、じっとしていることが苦手な子供で、常に動いているか何かをしている子供でした。要は落ち着きがなかったのでしょう。
2階が父の診療所で、1階が私たち家族の住居というスタイルの家で生活していました。好奇心旺盛な私は暇さえあれば、階段を這って上がり父の仕事の邪魔をしていたようでした。診療室の横には技工室があり、もっぱら私の居場所はそこでした。
そこには面倒見のよい技工士さんが私の相手をしてくれていたようでした。私はチョロチョロしていたので技工士さんはかなり気をつかっていたことでしょう。ですので、私は歯を削る時のタービンの音とあの独特な臭い、薬の臭い、技工室のバーナーの火やこまごまとした道具の中で幼少期を過ごしていました。
幼稚園生の時、技工士さんが作っていたプラモデルにすごく興味を持ち、このとき初めて簡単な車のプラモデルを作りました。
形が出来上がることに感動を覚えシールを貼って出来上がった時の嬉しさは忘れられません。しかし、2~3日後、その完成した車のプラモデルで遊んでいたとき、不注意で壁に激突させて壊してしまし、悲しい、悔しい思い出があります。泣きながら技工士さんに修理をお願いしましたがダメでした。
小学校に入学してもプラモデル作りに時間を費やし、お小遣いやお年玉のほとんどはプラモデルでした。よく母から「そんなことばかりしてないで、本を読みなさい!」とよく言われたことを思い出します。本を読むよりプラモデルを作っていた方が楽しかったようでした。
プラモデル屋さんに行くことも大好きで、買わないけどもただ眺めてくるだけでも楽しかったです。この頃のプラモデルでの失敗は、シールを貼って完成させ、早く乾かそうとストーブの横に置いておいたらストーブの熱でプラモデルが溶けて変形してしまい、またまた悲しい、悔しい思いをしました。
プラモデルを作りながら思っていたことがあるのですが、歯科技工道具、特に技工用ハサミはなんて便利がいいんだと関心していました。小学校3年生の春休みに春の選抜高校野球甲子園大会のテレビを見て野球に興味を持ち、野球がしたくなりました。父にグローブとボールを買ってもらい兄とキャッチボールをしていましたが、下手同士なので上手く続きませんでした。
その頃、父は歯科医師会の野球部のピッチャーをやっていたので付き合ってもらいました。しかし、父は土、日は居なくてなかなかキャッチボールをしてもらえなかったのですが、居るときは必ず相手をしてくれ、かっこつけて投げる私の球に「ナイスボール!」と言ってくれることが嬉しかったです。
キャッチボールを覚えてから外で遊ぶことが多くなり、すぐ近くの公園で近所の子たちと野球ごっこをしていました。学校から帰ってきたらカバンを置いてすぐに公園で遊ぶという毎日でした。私の家は患者さんの玄関と私たち家族の玄関が一緒のつくりでして、その頃は患者さんが溢れていた時代で玄関は患者さんの靴で毎日埋め尽くされていました。
靴でドアが閉まらなく半開きになっていたこともしばしばありました。私は埋め尽くされた靴の隙間をステップしながら、または患者さんの靴を整理しながら家に入ったものでした。玄関での光景はたくさんの靴だけではなく、2階の待合室が一杯だった時には玄関から2階への階段に腰を掛けて順番待ちをしている患者さんがいたり、痛そうに顔を押さえてうつむいている患者さんいたり、あの甲高いタービンの音、診療室から聞こえてくる泣き声や父の怒っている声など、小学生の私はなんだか暗く嫌な思いをしたものでした。
私はおかげさまで歯で辛い思いをしていませんでしたから何でそんなに歯が悪い人が多いの?何でそんなに辛い思いをしちゃうのかな?と子供ながらに思っていました。歯医者って嫌な所だなぁと思いつつも、何とかして困らないようにしてあげられないのかな?楽しく来られたらいいにになぁ?病院なんだからそんな楽しく来られるわけがないだろう?なんて自問自答していたのが小学校4年生の頃でした。
この時期に自分は将来どんな職業をしたいのかを発表する時間がありました。青空を見ることが好きだった自分は空への憧れとかっこよさでパイロットになりたいと思っていましたが、毎日の玄関での光景が私を歯科医にさせるきっかけを与えてくれたように思います。それに患者さんからお菓子の頂き物を持ってくる父の姿を見て、仕事で人から感謝されることっていいなぁと思いましたし、たくさんのお菓子を食べられることが嬉しかったのでした。
小学校4年時の担任の先生は厳しく、面倒みのよい先生でして、将来お父さんの跡継ぎをするなら今から勉強しなければいけないと言われ、毎日の家庭学習帳をすることになりました。今まで勉強したことがなかったので、どうやって勉強したらいいのかわからなかったですし、じっとしていられない私は机に向かっているのが苦痛でした。そして自分なりに一つの結論を出しました。それは参考書の丸写しをすることでした。丸写しなので考えることもなく、作業自体早くできる私にとってはいい方法でした。提出し、先生から帰ってきたコメントにはおほめの言葉が書かれていました。ただ丸写ししただけなのに・・・・・この先生にはよく怒られ叩かれていましたが、このほめて頂いたことがすごく嬉しくまた頑張ろうと思いました。
動物占いでは私は「猿」なので、担任は私のこと「猿」だと知っていたのだろうか?おだてりゃすぐ木に登るということを・・・・・おだてに弱い私です!この家庭学習帳があったからこそ、勉強の仕方や習慣を身につけることができたようです。担任の先生に感謝いたします。
小学校6年生の時、漫画「サーキットの狼」が大好きでスーパーカーブームでもありフェラーリ・ランボルギーニ・ポルシェ・ロータスヨーロッパなどに感動し、それらのプラモデルを作りました。特にフェラーリ308GTBが大好きで、大人になったら乗るぞ!と思っていたものでした。今となってもフェラーリは夢のまた夢ですが・・・・・
中学生になり部活にも入らず、行くところといえば学校と塾とゲームセンターでした。 この頃インベーダーゲームがはやっていたときで夢中でしていました。
そして父にこんなバカなことを言って怒られていました。「歯医者の待合室にインベーダーゲームを置いて、患者さんが待っている間にやってもらったら?」なんて言ったものでした。
私は学生服が嫌いで特に首が締め付けられるのが嫌で、高校は学生服を着なくてもよい私服の高校を目指しました。
将来の職業に向けて志を大きく偏差値の高い大学を志望して、希望に満ちて私服の高校に入学しましたが、すごく勉強のできる奴らに関心し、関心している間に授業はどんどん早く進み、中学校とはまるで違うなぁと実感していました。
ついていくのに精一杯だったと思います。高校3年間はおもしろおかしく人との交流を楽しみながら過ごしていました。高校2年生の夏休みに東京の夏期講習に行き、そこで大いに刺激を受け東京って楽しいところだなぁ!と思い、大学は東京にしようと決めたのがこの頃でした。
私は好奇心旺盛なので講習会の後一人で渋谷、原宿、青山、新宿、など歩き回りすっかり東京の地理などを覚えました。歯科医になりたいという思いは変わらず、入学したかった東京歯科大学に合格することができました。
友達よりもいち早く合格を決め、周りが必死で頑張っているときは私は東京に行く準備として毎月買っていたポパイやホットドックプレスやメンズクラブの雑誌や一人暮らしの東京マップをワクワクしながら読んでいました。
高校卒業の謝恩会で仲間にお前はどんな歯医者になるんだろうか?と言われ、子供の頃に見たうちの玄関の暗い嫌だった光景から「歯を悪くしない研究をする歯医者」と言いました。その頃から皆さんの歯を守ってあげたいなぁということをおぼろげながら自分では意識していたかもしれません。
大学6年間を東京で楽しもうと上京しました。私の兄が一つ上の学年にいましたから最初の2年間は一緒に住んでいましたが、けんかが絶えず、学年が1年違いでしたが、解剖学が同時進行で行われていて同じ時に試験がありシェーデルの取り合いをして壊してしまった思い出があります。
とうとう別々に住むことになり、両親には大きな負担をかけることになりました。父がゴルフ好きで、土日はほとんどゴルフ場にいた父の勧めもありゴルフ部に入部しました。ゴルフ部の6年間は大変楽しく先輩も後輩もいい仲間達で、一般的に合宿は辛い厳しいとされていますが、和気あいあいで楽しかったです。
大学5年生の幹部の時、全日本歯学生ゴルフ大会で団体優勝することができたのが嬉しい思い出です。しかし、私はゴルフはあまり上手くなかったので選手ではなくギャラリーとしての参加でした。残念!ゴルフ部で唯一、車の持っていない私は個人的にゴルフ練習に行くのが大変でした。歩いて入ったり、バスに乗ったり、友達の原チャリを借りたりして練習場に行っていました。
個人的練習場通いでの楽しみは受付の女の子と仲良くなったことでしたが、車のない私はデートをしてもらえずふられてしまいました。またまた車のないことを恨みました!大学5年生の後期は病院実習に入り、そこで医局員の先生方と知り合いになり、私がゴルフ部ということがわかると「ゴルフ教えろ!」と言われるのですが、学生が医局の先生に教えるなんて緊張もするし、上手じゃなかったので教えるのは結構しんどかったです。病院実習は40人単位で色々な科を一緒に回るので接している時間が長くなり、おのずと皆が仲良くなりよく酒を飲みに行くことが多くなりました。
自分の家には帰らず、大学のそばの友達の家に泊まらせてもらうことが多くなりました。病院実習も終わりかけの時、私はゴルフ部先輩の医局員の先生の患者さんを担当することになり、総入れ歯の型取りに関する知識や手技・手順について口頭試問されましたが、私は分かっていなくて答えられず、もう少しで患者さんケースを没収されるところでした。あせった私は日曜日に大学へ行き、ほとんど人のいないラボで一人寂しく自分の口に材料を入れて型取りの練習をしました。自分なりに努力をしてみました。資料の確認をしながら、入れ歯の端の形を決めるための材料が熱く粘膜がやけどしそうになりながら、鏡を見ながら唇や頬っぺたをひっぱりながら、おまけに苦しくて涙をながしながらやっていたところに、ある知り合いの医局の先生がやって来て、「お前ここで何してるんだ?」と聞かれました。理由を話すと「そうか、頑張れ!」と言って笑って行ってしまいました。
翌日、日曜日の私の行動を知ったゴルフ部先輩の先生は私の努力を認めてくれ、午後からの総入れ歯の患者さんの型取りと辺縁決めをさせてもらいました。それからというものその先輩にはかなりお世話になり、食事に連れていってもらったり、卒業試験を一発でクリアできるようにとだいぶしごかれました。お陰さまで卒業試験を一発でクリアできました。そのため国家試験前は余裕をもって勉強できたので助かりました。
また先生の奥様の妹さんを紹介して頂きましたが、どうにも発展しませんでした。またもや残念!大学6年間はゴルフ部活動と飲むことが中心で、高校卒業時の「予防」への志はいったいどこへ?といった感じで過ごしていました。色々ありましたし、色々なことをさせてもらって楽しい大学生活でした。親に感謝いたします。ありがとうございました。
国家試験を無事に合格して晴れて歯科医師になりました。大学合格以上に嬉しかったことでした。
小学校4年生時の目標が達成されたわけで、自分で決めていたことでしたのでなんとか頑張ることが出来たように思います。
両親には一度も歯科医になりなさいと言われたことはありませんでした。歯科医師にはなれましたが、どんな歯科医師になりたいのか、どんな歯科医院を作っていきたいかなどのネクストステージの目標はこの時、まだ全然ありませんでした。「予防歯科」という少年期にうっすらと感じていた事、歯科医を目指そうとした動機は薄れていて、勤務医時代は技術や知識の吸収に力を注いでいました。
大学の授業も病気があるという前提で進められていますから病気のことや治療のことになります。勿論それらはなくてはならないもので大切なことですが、患者さんとのコミュニケーションや信頼関係づくり、患者さんのお口の健康としての予防という大切なことが欠如したまま勤務医をしていました。
医療を行っていく上で大切なことが後で痛感することになりますが、その当時は意識していませんでした。しかし、この時期のテクニカルスキルアップが今の自分があるのだと思っています。
月に一度以上はセミナーに参加し、週末は飲み会や合コン、平日はティップネスでエアロビクスに夢中というような生活をしていました。エアロビクスのやり始めは短パンTシャツというスタイルでしたが、段々と出来るようになり、今まで敬遠していたレオタードを着るようになりました。始めは恥ずかしさがありましたが、誰も自分のことは見てないんだから気にするな!と言い聞かせ、後ろで踊っていたのがついつい前の方で踊るようにもなりました。
今となってはレオタードを着れる体型ではありませんが・・・・・・毎回同じような人達と顔合わせをすることで皆と仲良くなりエアロビクスのレッスン後、インストラクターとその取り巻きの人達と飲みに行きました。汗をかいた後のビールは最高でした。「歌って踊れる歯医者を目指したら?」ということをよく言われたものでした。その中に自分にとっていい人がいたのですが、「コンビニのないところには行きたくない」と言われ、またまたふられました。残念!その当時、帯広にはコンビニはありませんでした。
そして、なんとか独り立ちできるこころまで研鑽を積んで92年8月に実家のある帯広に戻ってきました。開業するまでの間、父と兄の医院でお世話になりました。
1994年1月6日に当地にて開業しました。治療はきっちりしようという硬い信念のもと、希望と不安のなかでのスタートでした。確か開業して4~5年経ったころ高校時代のクラス会がありました。
その時、友人から「開業してどうだい?確か、高校卒業時に言っていたことで予防的な歯医者になる?とか言っていたがそうしているのか?」この発言を聞いて、はっ!としました。自分自身も忘れていたことが何で奴が覚えているんだろう?しかも16年位前の話を・・・この友人の発言が私の今後の方向性を明確にしてくれました。
歯科医師として大切にしていくものを気づかせてもらいました。感謝しています!治療をして歯を治すことに精一杯でして、患者さんの今後のお口の健康には意識が向いていませんでした。歯の病気だけを診ていくのではなくみなさんの健康を観ていきたいと思うようになりました。そこから予防歯科についての勉強を始めていきました。福岡、山形、大阪、東京、札幌などに勉強に行きました。
毎日の臨床に予防を取り入れていこうと頑張っていた矢先、大きなショックを受けることがありました。それは、私たちがよかれと思っていることが、すべての患者さんに受け入れられるとは限らないということを知らされました。
ある患者さんに、「そんなに予防予防と、言われても、いつもいつも歯のことばかり考えて生活なんかしてないよ!あなたたちは仕事柄、歯のことを考えてられるかもしれないけど・・・・・」と、言われてしまいました。どうして解ってくれないんだろう?と思ったものでした。
それからその患者さんの来院は途絶えてしまいました。患者さんのことを解らず、また解ろうともせずに医療者の一方的な押し付けをしていただけなんだと気づき反省しました。それからはコミュニケーションや信頼関係が大切なことだと認識できるようになりました。
患者さんと医療者との考え方や思いのギャップ、温度差を埋めていくためにはコミュニケーションが重要なんだとその患者さんから気づかせて頂きました。あの時、その患者さんが私たちに直接その様なことを言ってくださらなければ、変わらず同じ事を繰り返していたことと思います。どうもありがとうございました。しかし、5年後くらいにその患者さんは再初診として来院して頂きました。
今となっては定期健診に来て頂いておりますので、救われた感じをしており嬉しく思います。皆さんの幸せな生活の支えとして私たちの存在価値があるのだということを忘れずに健康づくりのパートナーであり続けたいと思っています。最後までお読み頂き感謝致します。どうもありがとうございました。
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